同じ体験がある人には苦痛になり、別の人には喜びとなる

子供を育てることに苦痛を感じている親はたくさんいる。
つまり子供を育てる覚悟がなくて子供を持ってしまう人はたくさんいる。

それなら何でそのような人達はそんなに多くの子供を持ってしまうのか。
神経症的傾向の強い人は子供を生むのも簡単に生む。

そして自分の子育てに困難があってはならないと思っている。
子供を生むためには経済的なことをはじめ色々な準備がある。

時間的にも忙しくなるし、心理的な準備も必要である。
子供ができれば親は自分たち二人でいい気になって遊び歩くことなどできない。

自分たちの使うお小遣いも制限される。人との付き合いも制限される。
栄光を強迫的に求める者にとって、家庭生活や子育ては苦痛である。

家庭生活や子育てに取られる時間やエネルギーは栄光追求の障害でしかないからである。
栄光を強迫的に求める者は子供を育てることから日常的に喜びを得ることはできない。

自己実現の姿勢のある者にとっては子供を育てる苦労は同時に喜びの源泉でもある。
同じように子供の世話をしていても、片方の人間にとってはそれが苦痛であり、
他方の人間にとっては喜びである。

同じ体験が人々に同じ感情をもたらすものではない。
何が苦痛で、何が喜びであるかはその人によって全く異なる。

子供を育てることに喜びを感じることができる人は、
与えることに喜びを感じることができるまでに心理的に成長している。

そのように心理的に成長した人にとって子供は「自分に喜びを与えてくれる存在」である。
しかしそこまで心理的に成長していなくて、愛されること、与えられることばかり
要求する人にとって、子供は「自分に苦痛を与える存在」である。
子育ては苦痛でしかない。

子供を育てることは神経症の親にとって、割りに合わない仕事であり、苦痛である。

人間の幸せにとって重大なのは、何を体験するかということと同時に、
その体験をその人がどう感じるかということである。

与えることが喜びになる前に親になってしまった人もいる。
そのように情緒的に未成熟な親にとっては子供を生むことは悩みはじめること、
苦しみはじめることでしかない。

そして子供の方も幸せにはなれない。子供もまた不幸である。
このような場合に子供の心は病んでいく。

子供がいるという事実が幸せでもなければ、子供がいないという事実が不幸せでもない。
その体験にふさわしい心理的成長をしているかいないかに幸福か不幸はかかっている。