子供の心は全く理解できない
子供は母親と別個の人格であるから、母親が着せたいと思う服と
子供が着たいという服は必ずしも一致しない。
母親が着せて得意になっている服を、子供は恥ずかしがっているかもしれない。
しかし母親は、自分の一部として子供を愛しているから、この違いが分からない。
自分の体にこの服を着せたいと思う事と、
子供の体にこの服を着せたいという事の違いは、
子供を自分とは別の人格として認識してはじめて分かるものである。
この世の中には、子供を自分の一部として愛している母親がいる。
そして、自分は子供を可愛がっていると信じている。
したがって、ある時子供が精神的に障害をきたしても、全く理解できない。
反抗されても、その原因は全く理解できない。
そして「あんなに可愛がったのに」という嘆きになる。
自分は社会に対して体面を維持しようとする。そのような自分の虚栄心の
必要はもちろん理解できる。しかし、子供の心が欲しているものには
全く理解できない。
子供がクラスでよい成績をとる。親は得意になる。親戚の人の自慢をする。
地域社会の人に自慢をする。親は自らの虚栄心を満たす必要がある。
子供は親の愛を求めている。子供はありのままの自分として愛される必要がある。
クラスで成績がよかろうと悪かろうと愛される必要がある。
母なるものをもっている母親は、子供のこの必要を直感的に把握する。
しかし母なるものが欠如している母親は、子供の成績が悪い時、
自分の必要性が満たされないため、子供に不満を感じる。
子供はそれを無言の圧力として感じる。そして自分の必要性には眼をつぶる。
眼をつぶりながらもその後の人生で、この母なるものの愛を求め続けることになる。