自分が自分の敵になる

親に迎合しながら生きてきた者は、どうしても自分を受け入れ、
他人を愛することができない。

他人に迎合することが、他人に受け入れられる方法であると錯覚する。
実際の自分を開示することで親密になる、ということが、感情の上で
どうしても理解できないのである。

迎合するということは、ありのままの自分ではなく、相手の望むような
人間になる、ということである。

その結果が、こうありたいと願う自分にとって、実際の自分が敵に
なってしまっていることがある。

しかし、怖れる者は、まず頭で理解することから出発しなければならないであろう。
嫌われるのが怖い人間は、嫌われまいとすることより、その他者を愛そうとすることで、
嫌われる恐怖がなくなることを、まず頭でハッキリと理解することである。

嫌われまい、嫌われまいと自分に注意するよりも、好きになろう、
好きになろうと自分の注意をむけることである。

好きな相手から拒絶されることを怖れまいとするよりも、
自分が相手を好きであるという感情を大切にしようと、まず頭でわかることである。

好きという感情と怖れの感情の中で、好きという感情に自己を没入させていこうと、
まず頭で思うことである。

好かれようとするよりも、まず自己が好きだという点に注意を向けようと
することである。好かれようとすると、相手の自分に対する評価をあげようとし、
自分の弱点を隠そうとし、結果として相手を敵の立場に追いやってしまう。

それよりも、自分は相手を好きなんだ、という点に自分の注意を集中させようと
することである。もちろん、その点に集中させようとしたって集中できず、
好かれよう、嫌われまいとしてしまうかも知れない。

しかし、まず頭でそう理解することから出発しなければならない。
そして、自分がこんなに嫌われることを怖れているのは、自分に価値がないからではなく
たまたま自分が安心できるような雰囲気の中で成長してこなかった、と
頭で理解することである。