温かさを与えてくれるような人を憎んでいたりする
神経症的な人は、人と触れ合って生きてこなかったのである。
だから触れ合うということが理解できない。
そして、自分は触れ合いの体験がなく生きてきたということにも
気がついていない。
しかし触れ合いという言葉は知っている。そこが問題なのである。
するとどうなるか。心の触れ合いではない体験を触れ合いと誤解する。
そして自分は今まで触れ合いの体験を欠如してきたということに
気がつかなくなる。いつの間にか寒々とした家庭を愛に包まれた家庭と
理解するようになる。
もし自分が言葉の意味するところの心の触れ合うような家庭で
育っていれば神経症的になることなど考えられない。
神経症的になってしまったということは、愛という名の憎悪、
温かさという言葉の冷たさ、思いやりという名の敵意の中で
育ったということではないだろうか。
両親でも、兄弟姉妹でも、誰でもいいから誰か一人でも他人を理解する
能力を持っていたら、あなたは救われたかもしれない。
しかしあなたの周囲には、おそらく思いやりのある人は
一人もいなかったのであろう。
あなたが我が儘を言って誰か受け入れてくれたであろうか。
子供の本性は我が儘なのである。
それなのにあなたは一切の我儘を自分に禁じた。
それは周囲の人が禁じたからである。
それを禁じなければあなたは拒否されたからである。
ところが不思議なことに、あなたは今、あなたを理解することなく、
あなたをもて遊んだ人を憎んではいない。
逆にあなたを理解し、あなたに温かさを与えてくれるような人を憎んでいたりする。
心の病んだ人というのは、憎むべき人を憎まず、逆にその人々に
罪悪感などを抱いたりする。憎んでもいい人に対しては善意の人となったりする。
憎んでもいい人に対しては冷たくできない。罪悪感を覚えるからである。
それでいて、自分を理解し、思いやりのある配偶者や恋人などを憎んでいたりする。
本来憎んでいい人達の、ほんのわずかの親切を裏切ることに罪悪感を持つくせに
自分に思いやりのある人の真心は、どんなに裏切っても罪悪感を持たない。