漫然と過ごしていてもいいことは起らない

いつになっても結婚の相手を決められない人がいる。
結婚したいのだけれども、相手を決められないのである。

口では自分にあった人がいないというが、心の底では特別に
いい人を望んでいるのである。

何とかして責任を逃れたいという願いが無意識の領域にあるからこそ
決断できないのである。

ある決断をするということは、普通の人が背負う責任を自分も背負う
決心をするということでもある。

普通の人が背負う責任を逃れたいと心の底で願っていればいるほど、
相手の責任を激しく追及する。

相手の限界が自分のわがままにとって障害になるからである。
だから相手の限界を責めるのである。

実際の自分の限界を無視して理想の自分を自分と意識しているような人と
付き合う人は悲惨である。

当の本人は心の底の底で自分の限界を知っている。
しかし、それを認めることはできない。

だからその心の葛藤を解決するために相手の限界を責めるのである。
このような人は相手を選べないし、選べば相手を不幸にする。

仕事についても同じである。
どんな仕事についても、それに全力を尽くすことができない。

これが自分の仕事であるという選択ができないのである。
何とかして責任を逃れようとしているから、自分には何か
特別いい仕事があるのを待っているのである。

普通に仕事をして普通に扱われる。それができないのである。
普通に生きていることから生じてくる責任を避けようとするから
自分にあった仕事がないと言っているのである。

どの仕事も選べない。優柔不断な人は自分に失望しつつ、
自分を特別偉く見せようとしているのである。

決断すべき時に決断を引き延ばす。それは責任を避けようとするからである。

何か特別にいいことを待っているうちに、人間はどんどん年をとっていく。
先へ進むことを躊躇していても時はどんどん流れていく。

漫然と何かいいことが起きるのを待っている間に、自分の心を見つめてみることだろう。
そして自分の失望感と直面することである。