感情の枯渇は、次第に物事への無関心となっていく
素直な感情表現は、はしたなくはない。
それを禁じることは望ましいことではない。
素直な感情表現は状況を心得ている。
しかし、はしたなさそのものは望ましいものではない。
はしたなさとは基準を忘れることであろう。
状況判断ができない人が「はしたない」のである。![]()
いくら明るいことがいいことと言っても、お葬式で笑うことを
いいことと思う人はいない。
はしたない人は、騒いでいいところと騒いではいけないところの
判断ができないのである。
その場その場の感情表現をして、場所を心得ていないのが
「はしたない」ということである。
しとやかさとは状況判断ができている人である。
しとやかさとは、満足している人の振舞いである。![]()
その点ではしとやかさとは、美徳であろう。素直さも同じである。
感情を素直に表現するとは、演技することとは違うということである。
ただ、しとやかさが美徳ということになると、しとやかな女という
イメージを売る女が出てくる。![]()
つまり美徳は、望む相手を獲得するためのテクニックになりうる。
そして、そのテクニックに引っかかる男がいる。
嬉しい時、嬉しいという感情を素直に外に出すことを抑圧されると、
次第次第に嬉しいと思う感情それ自体が衰退してきてしまうのである。
人間は一定の感情を表現することを禁じられると、次第にその感情を
味わう機能自体を失っていく。感情が枯渇してしまうのである。
感情の枯渇は、次第に物事への無関心となっていく。
ついには自分自身にも無関心となっていく。![]()
怒りもまた表現されると「はしたない」ものとされる時がある。
怒りを抑えて静かに微笑んでいることが美徳であり、偉大な人間であるとされる。
怒りは表出することを抑えられると、根深い憎しみとなって人格の
内部に存在するようになる。それは、陰湿な、しつこい憎しみとなって
人々の人格を特徴づける。![]()
そしてその憎しみのエネルギーさえもやがて失った時、やはり人生に対して
無関心となって無表情、無個性な人間が生み出される。