憎い人を使うまでになってこそ名指導者である
不安な人にとって恋と憎しみは最も扱いにくい感情である。
自我の確立がないまま恋に落ちると、その恋にとらわれる。
明けても暮れてもその恋人のことを考えている。
その恋人のことで頭がいっぱいで、あとのことは考えられない。
同じように憎しみにとらわれると、明けても暮れてもその憎い人の
ことを話していて飽きない。その憎い人以外に関心がなくなってしまう。
ある心理学者はうまく人を変える方法の一つとして、相手の顔を立てるということを挙げる。
人事異動などのときには、他人の顔を潰さないように気をつけなければならない。
しかしいったん憎しみにとらわれると、相手の顔を潰すことが目的になってしまう。
それでうまく人を動かすことなどできるわけがない。
そのようになってしまった人でも頭では、人を動かすためには
相手の顔を立てながら動かさなければならないと分かっている。
人事で思い通りに人を動かすには、できるだけ相手の顔を立てることだと分かっている。
しかし頭に感情がついていかない。
憎しみにとらわれていればいるほど、このルールは守れない。
その憎い人を使うまでになってこそ名指導者である。
憎むからにはそれだけの何かがそれまでにあったに違いない。
それまでにその人に一生懸命してきてあげたことがある。
それを裏切られたとか、期待に沿ってくれなかったとか、色々あるであろう。
しかしそこで憎んで相手を傷つけてしまっては、今までの投資はマイナスになる。
これまでの投資を無駄にしないと心機一転して、その部下の使い方を
考えるようになれば、大きな仕事ができる。
だから、年齢的に若いうちの能力と、高齢になってからの能力は違うというのである。
若い頃は英語でもできればそれが能力と思っている。
コンピューターを使いこなせれば能力があると錯覚している。
しかしそんな学生時代の能力などはこの人生で大きな仕事をするための
能力としては、とるに足りないものでしかない。
だから二十代、三十代で頭角を現してもいつか消えてしまったり、
燃え尽きたり、神経症になったりと挫折していく人が多いのである。
自分の能力を勘違いしている人の努力は、みんなでする仕事にマイナスで
あることに気がつかなければならない。
また真の指導者は、このどうしようもないマイナス人間を使える人でもある。