どのようなことに侮辱を感じるかは人によって異なる
見捨てられる不安のある人は、相手と言い争うとそれだけで
もうその関係は壊れてしまうのではないかと恐れる。
そこで言い争うことを避ける。言い争うことを物凄いことに感じる。
しかし見捨てられる不安のある人が、言い争いと感じていることを
必ずしも相手が同じように感じているとは限らない。
同じ体験をしても、あなたはもう終わりだと感じ、相手は単なる会話
と感じているかもしれない。見捨てられる不安のある人に
「あなたは恋人と何回ケンカをしましたか?」と聞いたとする。
一方で、同じことを心理的に安定した恋人に聞いたとする。
すると恋人同士で共通の体験をしながら、解釈は違っているはずである。
おそらくケンカをしたと思っている回数はかなり違うであろう。
見捨てられる不安のある人は、意見が違いながらも、相手が自分を
好きだということが理解できない。
相手が自分の弱点を指摘しながらも、自分を好きだということが理解できない。
だからちょっとした欠点の指摘をされると深く傷ついてしまう。
ちょっとしたことでも取り返しのつかないケンカと感じてしまう。
そしてその意見の食い違いに、心の中でこだわってしまう。
あるいは指摘された弱点にこだわってしまう。
相手の言葉をどう解釈するか、これは大きな問題である。
相手の言った言葉を相手の言った意味においてとらえることは、
ときに外国語を理解するより難しい。
同じように自分が相手に言うことも、自分の言った意味で
相手がとらえているとは限らない。
どのようなことに侮辱を感じるかは人によって異なる。
したがって、侮辱するつもりで言った言葉ではないのに、相手が侮辱を感じることはある。
人によく思われるかどうかは結果である。それを目的にして生きてはいけない。
ところが神経症者は、結果として得られるものを目的にして
生きるという重大な過ちをおかしている。