自分が思うほど他人は自分に期待していない
母親のいないところで父親が母親を馬鹿にするようなことを子供に言う。
あるいは、母親が子供に「お父さんのようになってしまうわよ」とおどす。
それでいながら、父と母は、平気で一緒に暮らしている。
それを見た子供は、他人の言うことを信用できなくなる。
父と母の間の不信を見た子供は、自分の中にその不信の関係を内面化していく。
子供は、その家の不信の構造を自分の中に取り込んでいく。
不信の構造を自分の中に取り込んだ子供は、成長しても他人と最後のところで
親しくなれない。親密になることが怖い。裏切られることを恐れているからである。
父と母の間には信頼感がない。子供は強いほうに迎合していく。
その強い親は、子供を排他的に愛したりする。
そうなると、他人と親しくなること自体が、その親への裏切りと感じるようになる。
では親を信頼しているかというと、そうではない。
親同士の関係を見て、その場の構造を自分の中に取り込んでいるだけである。
二重にも、三重にも不信で縛りつけられている。
こんな状態で、どうして他人と親密な関係を築くことができようか。
どうしても、他人と会えば圧倒されるような気持ちになり、いじけるしかない。
自分のできること以上のことを他人にしてあげようとするから、他人と会うと
緊張するのである。今の自分の状態でできることをして、それで付き合い
きれないのなら、もともとその人とは縁がなかったのである。
実際の自分、ありのままの自分、いつもそれでいればよいのである。
人と会う時、何か特別にしようとするから、ストレスを感じてしまうのである。
自分が思うほど、他人は自分に期待してはいないのである。
自分がいなくても、他人は楽しくやれる。
しかし、自分の親が依存心が強い場合は、そうは思わない。
自分の気持ちのあり方で、親が楽しくなったり、怒ったりということの
多かった人は、他人は誰でも自分の気持ちのあり方に大きく依存していると勘違いしている。