生きることに負い目を感じてしまう

自分を見失っている者に、勇気をもて、自信をもて、
元気を出せといってもよけいに自分を見失うばかりであろう。

自分を見失っている者に対して親切であるということは、自分を見出させてあげることである。
そのためには、自分を見失っているその人を、見失ったままで受け入れてあげることである。

受け入れられるとは、その人が付き合いにおいて自分に負い目を感じなくてもいいということである。
恩着せがましい親に育てられた子供は、決定的に負い目を感じて歪んでしまう。
恩着せがましさによって、その子は自分自身が生きること、
そのことに負い目を感じるようになってしまう。

恩着せがましい親に育てられた子供は、負い目の重荷を背負いながら
生きることになる。人に堂々と接することができない。

他人に何か頼むことができない。何かを頼むということは負い目の重荷を増すことでしかないからである。

身近な人にさえ、これをしてほしいということが言えない。
無力な幼児の頃から感謝を要求されて育ち、自分の存在そのものに負い目を感じているからである。

何をするにも絶えず気がひけている。何も気がひける必要のない
ところでも気がひける。絶えず負い目の負担を感じているから人に会うと、
まず「すいません」と謝ってしまう。

客観的に謝る必要のないところで、思わず謝ってしまうのである。
ほんのちょっとした失敗でもオーバーに謝る。

オーバーに謝っても内心の安定は回復しない。
気がすまないのである。そこで二度、三度もくどいほど謝ったりする。