自分の憎しみを子供を苛めることで晴らしている
父親とキャッチボールをして球が取れないと怒られて、
物凄い球を膝をめがけて投げられるという男の子がいた。
その子はそれでも、父親を素晴らしい父親と思っている。
その子は父親をいい人と思わなければ、生きていけないのである。
誰も助けてくれないのだから。
そしてこの父親は愛情という名で、子供の膝めがけてボールを投げる。
そして自分のイライラの感情を晴らす。父親は相手の弱い立場を知っている。
子供にとっては次のような状況である。
腐ったリンゴがある。それを美味しいと思って食べなければならない。
あるいはそこにヘビがいる。しかし怖いと思ってはいけない。
こうして育った子供は言葉を信じる。相手が「愛している」と言うと、愛されていると思う。
相手のしていることを見ていない。相手が「お前のためだ」と言うから相手は「いい人」になる。
子供の膝めがけて球を投げる。この父親は子供を苛めながら子供とかかわっているのである。
憎しみを持った人が人と親しくなろうとする時に、こういうことをする。
相手とどう触れていいか分からない。触れ方が分からないのである。
苛める人は支配的な方法で他人とかかわろうとする。この父親の息子とのかかわり方である。
おそらくこの父親は息子を苛めることでしか、息子とかかわれないのだろう。
どう息子とかかわっていいか分からないのである。
苛めることが手っ取り早いかかわり方なのである。苛められた子供は球を取れない自分を責める。
父親が自分を苛めていると意識できない。怖くてそのように意識できない。
父親も子供を苛めているとは意識していない。
家庭内の苛めの恐ろしさは、苛めるほうも苛められるほうもそれを苛めと意識していないことである。