自分にはもう何もできない

うつ病者は疲れ果てているから、障害に対して極めて過敏である。
障害を乗り越えるのは不可能だと考える。

あるうつ病の女性は、ボールペンを探すことはできないと考える。
しかしカバンの中に入っていることを知っている。

要するにカバンの中からボールペンを取り出すことすらできない。
それほど心身共に疲れ果てている。

ボールペンを取り出す事だけができないというのではない。
何もできないと言ったほうがいいかもしれない。

同じように、あるうつ病の男性の車のタイヤがパンクをした。
彼は自動車の修理工であったが、自分には何もできないという思いに圧倒された。

タイヤがパンクする以前から既に彼は、その状態を保っているのが
精一杯なのであろう。そこにタイヤのパンクという新たな問題が出てきた。

そこで、もう私には何もできないと感じる。それは不思議なことではない。
タイヤがパンクする前から、彼は既に新しく何かあったら
それに対処できないという心理状態のところまできていた。

もう何もできないことろまで心身ともに枯渇しているところに、新たに問題が起きた。
そうなれば自動車の修理工であっても、タイヤの交換はできない。

おそらく、その男性は自動車のことが好きではないのに、修理工になったのであろう。
そして真面目に働いたのであろう。自分に向いていないことでも一生懸命努力したのであろう。

幼い頃から自分の体にムチ打って、無理に無理を重ねて生きてきた。
嫌いな人に囲まれながらも、笑顔で生きてきた。
無理をしながらも、無理を顔に出さないで生きてきた。
嫌いな人でも、好きですという態度で生きてきた。

嫌いを隠し、無理を隠し、何が何だか分からなくなるまで、必死で生きてきた。
その苦しさ、辛さは、自分の適性に沿って生きることが許された人には理解ができないであろう。

うつ病になるような人が「疲れた」ということと、心理的健康な人が「疲れた」ということは意味が違う。