神経症の人などは、喪失から再生への道をうまく歩めない

人は愛されなくても再生できる。
愛されないという事実を受け入れ、絶望し、やがて回復できる。

事業に失敗するとか、失恋するとかという喪失がおきた時、
さっとあきらめて次の瞬間には、別の目標に向かっている、などという人はいない。

たいていの人は、すぐには素直に受け入れられない。
夢ではないかと思ったり、何かの間違いではないかと思ったりする。

失恋の場合であれば、いつかきっと帰ってくると思ったりする。
次に自分を捨てていった恋人を恨んだりする。激しい憎しみにかられる時もあるだろう。

そのような時期を経て、たいていの人は喪失を最終的に受け入れていく。
やっぱりダメだったと断念する。

最後には新しい情熱の対象を発見して生きていく。
これが心理的に健康な人の対象喪失に伴う悲哀のプロセスである。

失恋に際して、たいていの人は、一生憎み続けると怒っても、
やがては新しい恋に目ざめ憎しみも消えていく。

新しい恋がはじまって、昔の恋人の魅力から解放されるのか、
解放されてから新しい情熱の対象が見つかるのか、或いは同時に起きることなのか、
それぞれのケースで違うであろう。

いずれにしろ対象喪失を認識したところで気持ちの整理がつくわけではない。
夕暮れ時、或いは友人と喧嘩した時、「急にあの人がなつかしくなる。
逢いたい、でも終わったのだ、我慢するしかない」といったような時が
しばらく続くであろう。

健康な人は対象喪失を否認し続けたりはしない。やがて新しい心の体制を再建する。
健康な人は現実に直面し、対象喪失を認識する。

しかしこのことは神経症の人より悲しみが浅いなどということではない。
むしろ逆である。神経症の人より悲しみは深い。