情緒的エネルギーが無駄に使われていることに注意を払わない

ある程度、夢を見ることはいいであろう。
そしてまた、夢に刺激されて現実の世界に活力を感じることもある。

夢を持っている人間は幸せだし、その夢を実現すべく努力している
人間も幸せである。大切なのはそこである。

自分の夢を実現すべく努力することに自分の情緒的エネルギーを消費するか、
あまりにも長く夢を見続けて、その長すぎる夢の中で自分の
感情的エネルギーを使い果たすかということである。

人のエネルギーは、長い間夢を見ることと、夢を現実の世界で実現する
努力と、その双方に耐えられるほど多くはないのである。

興味本位の噂話に多大のエネルギーを使う人がいる。
噂話というのも多大なエネルギーを必要としながら、
決して現実的には物事を変革しえないものである。

噂話に明け暮れているだけで多大のエネルギーを使い果たすが、
いかに噂話に明け暮れたところで現実は少しも変わるものではない。

そして噂話というのは、どのように体裁をつくろってみても、
その話題の人達の幸せを祈るものではないのである。

よく、人々は通勤地獄のことを話題にする。
会社に行くと疲れてしまうというのである。

確かに、会社の行き帰りに使う膨大なエネルギーというのは何とも
非生産的であり、もったいないものである。

どんなに無駄な使い方をしても、それによってその人が
生きがいを感じたり、楽しかったりするならいいけれども、
あの通勤地獄というのは嫌なことだけでエネルギーを使ってしまう。

多くの人々の情緒的エネルギーというものが、日々の妬み、恨みの中で
使い果たされているかということを考える時、通勤地獄の
肉体的エネルギーと同じかそれ以上の深刻な問題と言わねばならない。

肉体的エネルギーの無駄な消費については、案外はっきりと分かるだけに
人々は問題にする。

エネルギーを使うだけ使って、楽しくもなければ意味を感じるわけでもなく、
ただやりきれなく不愉快で疲れてしまうということには、人々は注意を向ける。

しかし情緒的エネルギーがそれと同じように無駄に使われていると
いうことについては、注意を払わないのである。