間違いを認められない人の心の底には絶望がこびりついている

神経症的競争をする者は、当然のことながら自分の敗北を認められない。
人に勝つか負けるかが問題だからである。

自分がどういう人生を送るかが問題ではない。

例えば神経症的競争をする者は、仕事の選択を間違えた時に
間違えたと認めることができない。競争している仲間を意識してである。

仲間が間違えていないのに自分が間違えて不幸になったと認めるのが
悔しいからである。そうしたことを考えると、神経症的競争をする人は、
仲間に憎しみを持っているということでもある。

仕事の選択の間違いを認めることは、他人を意識しない人でも
後悔にさいなまれながら悲痛な日々を送ることを意味する。

しかし間違えたと認めることができる人だけがその後の人生で、
意味を見つけられる仕事につける。神経症的競争をする人は、仕事ばかりではない。
結婚を間違えた時に間違えたと認めることができない。

例えば学生時代の仲間が幸せな結婚生活をしているのが悔しい。
その人と昔から張り合っていた。
それなのに自分は結婚を間違えて、不幸であると認めることは悔しい。

しかし結婚を間違えた時に間違えたと認めることができる人だけが
その後の人生で充実した愛の生活を送ることができる。

結婚が間違っていたと認めることは、人と張り合っていなくても
深い絶望を生きることを意味する。
しかし実際に間違った結婚生活をしながらも結婚なんてこんなものさと
失敗を認めない人と違って、新しい出発ができる。

もちろん人を意識しなくても心の底には絶望がこびりついていることに
変わりはないだろうが。

要するに神経症的競争をする人は、敗北者につきものの感情を
抑圧するということである。結果的に心は葛藤に苦しみ、不安にさいなまれることになる。

いつまでも成長できないまま人を愛することができず、いつも不機嫌に苦しむことになる。

神経症的競争をする人が、自分の心の葛藤を解釈で解決しようとしても、それは所詮無理である。
自分は何故こんなに身構えて生きなければならないのか?

心の底を見つめることの方が、解釈よりもはるかに重要である。
実は仕事にしろ、結婚にしろ、それらの間違いは一つの人生の体験であって
決して敗北ではない。自分で勝手にそう決めつけているだけである。