親であることに無理がある

学校で知識を教える。すると子供は知識のある人が偉い人に思える。
きちんとした身なり、立派な立ち振る舞い、立派な言葉、
それが偉い人と小さい頃は思う。

先生と違い父親が教えるのは、「裸の人間である」。
大の大人はこういうもんだということを教える。

自分の心を出してみれば、人はそれほど立派でないことは多い。
しかし自分の心を出すことで人と親しくなれる。

人と触れあえる。
その自分の心を出すことがどのくらい大変か、ということを
教えるのが父親である。

小さい頃は心を出すことの偉大さが理解できない。
かっこよく振る舞うことだけが教えではない。

人間というのはこういう弱いものだと教えるのも父親である。
もちろんそれだけではない。

父親は様々な試練を与えてくれる人であってもらいたい。
そして父親の名に値する生き方をするには活力が必要である。

今日多くの父親は父親である存在感がない。
多くの男は自分は父親だから父親であらねばと努力している。

しかし父親であることに無理がある。
父親であろうとして父親になれていない男は多い。

それは自分がまだ子供だからである。
心理的に父親になれるまでに成長していない。

だから子供と一緒にいるよりも仲間と一緒にいたい。
子供よりも仲間のほうがいい。

しかし父親が父親でなければ家庭は家庭にならない。
母親も同じである。父親になれない男と母親になれない女が
家庭を作っているから、子供が心理的に成長しないのである。

だから親子のふれあいがないのである。