生きていることが楽しくない

おびえた子供は、親のお気に入りになることによって親の愛情を得ようとする。
自分の性向を無視して親のペットになること、そのように自分を変えることで
親の愛情から見捨てられないようにする。

親は子供を自分のお気に入りに変えようとする。
子供を自分のお気に入りにして可愛がることは、決して愛することではない。

親のお気に入りになろうとするから、成長して大人になってもやがて他人の
お気に入りになろうとするようになる。

他人のお気に入りならなければ生きていけないような気持ちになる。
それは幼い頃、親のお気に入りにならなければ、どんな恐ろしいことが
起きたか知っているからである。

他人に気に入られた部分しか自分には許されないと、彼は感じるようになる。
彼は恐怖から他人のペットになる。そして常にありのままの自分を受け入れる
ことができなくなる。

他人に気に入られた部分は自分で許すことができるが、
他人に気に入られない部分は許すことができない。

生きていることが楽しくない、それは自分で自分が許せないからである。

幼い頃、親に気に入られた部分しか許されず、気に入られなかった部分を
切り捨ててしまった人は、何をしても楽しいということがない。

「今日一日仕事はきつかった。しかし夕食がおいしく食べられた、よかったな」
ということなどないであろう。

無理によかったなと思おうとすることはあっても、自然の感情の流れの中で
よかったなと思うことはない。

よかったなという言葉で意識化されなくて、自然と満ち足りた気持ちになると
いうようなことが、他人のペットになってしまった人にはない。

ビジネスマンの休日の過ごし方などでも、同じである。
ゴルフをやっていても、何か楽しくない、健康のためとか付き合いのためとか、
何か理由がないとヤル気がしない。

他人に好かれようとして他人のペットになってしまった人は、どうしても楽しめない。
楽しむ能力を失ってしまったのである。

ゴルフも出世のためならできる。そしてそれが家族のためだと恩着せがましさ
からならできる。

自己愛的利己主義者の親の愛情を失わないように努力している間に、
ものごとに対する自分の中の自然な反応を失ってしまったのである。