怒りと憎しみの誤った処理
誰も私のことをわかってくれない、と言う人ほど、他人の気持ちを理解していない。
あの人はあの人で大変なんだろうなー、と思う人は
誰も私のことをわかっていないとは嘆かない。
誰も私のことをわかってくれない、と言う人は
私はあなたの気持ちを理解する能力はありません、と言っているに等しい。
彼らは、自分が頑張って肉体的に疲れているときには、
疲れている、疲れている、と騒ぐ。
しかも、疲れていると騒ぐ時に、疲れていると訴える相手を間違える。
エネルギーのない人に訴えに行ってしまう。言う人を間違える。
訴えられている人自身が、辛い、辛いと叫んでいる。
あるいは、このくらいのことを苦しい、苦しいと子供じみたことを
言うのではない、などとお説教する人のところに、苦しみを訴えに行ってしまう。
俺は頑張った、疲れている、という甘えの感情に合わせてくれる人
の所へは行かない。
彼らは小さい頃から関心を持たれないで生きてきたから、
何事もオーバーに表現しなければ関心をもってもらえないと思っている。
俺は疲れている、ばかりではなく、死にたいと騒ぐ人もいる。
死にたい、死にたいと騒いでも、ほんとうに死にたいとは思っていない。
死にたいくらい辛いと言っているのである。
だから何とかしてくれと叫んでいる。
この苦しい自分を助けて欲しいのである。
叫んでいる本人は、自分でもどうしていいかわからない。
このように叫ぶ人は、小さい頃から自分の意志で困難を乗り越えた体験がない。
依存心が強かったり、甘えの欲求が強かったりすると、どうしても
このように叫ぶ。
しかし甘えていても、期待しているような反応が周囲から返ってこない。
そこで、傷つき、怒り、憎しみを持つようになる。
問題は、その怒りや憎しみの処理である。
多くの場合、死にたい、疲れていると自分の惨めさをさらに
強調することで処理する。