噂話、不平、不満、愚痴とかは情緒的エネルギーを使う
愚痴を言う人は、愚痴を言うことで自分を正当化しているにすぎない。
そして心の底では、自分の言っていることが正しいとは思っていない。
家も仕事もうまくいっていない。
そして自分がいけないとも知っている。
しかし、これ以上自分を責めないでくれと言っているのである。
愚痴を言う人は、常に失敗している自分にフタをしているのである。
そして愚痴を言う人は愚痴を言うような人生観で生きている。
だからうまくいかない。
こういう人が集まって集団をつくる時もあるが、お互いに他人が気になって
協力しあうこともない。
そして愚痴を言う人間と言うのは何をやっても長続きはしない。
どのような環境が与えられても何かを見つけ出してきて
これさえあったらとか、あれさえ無ければとか、そういうことだけを
言い続けている。
しかし、あれさえあったらと言いながらも、決してそれを得るための
努力をしようとはしない。
もし、本当にあれさえあったらということが自分にとって
大変な問題であるなら、それを得るための何らかの行動をするはずである。
つまりは、あれさえあったらという愚痴をこぼすためのはけ口として、
何かを取り出してきているにすぎないのではないのだろうか。
愚痴をこぼすことは多大な情緒的エネルギーを使うものである。
愚痴をこぼしても現実は変わりはしないが、しかし、愚痴を
こぼすことに多大な情緒的エネルギーというものが費やされているのである。
愚痴をこぼしていても全くそこから何の満足を得ることはできない。
愚痴をこぼして不愉快になって、情緒的エネルギーが枯渇して、
したがって現実的改革へ向かう情熱がもはや失われているだけである。