心の中にある怒りを認めることができない

心配性と言われる人がいる。
これから起きることをああでもない、こうでもないと悩んだり、
ああなったらどうしよう、こうなったらどうしようと、くよくよと悩む。

こうなったら大変だ、ああなったら大変だと夜も眠れない。
しかし、たいてい心配するようにはならない。それなのに心配することで
消耗し、かつ心配することで時を無駄にする。

こういう人は怒りを抑圧した人であるという。手(パー)

何か心に葛藤のある人は、不必要に心配する。
ほとんど起こり得ないようなことを恐れて、もしそうなったらどうしようと
深刻に悩んでいるのである。exclamation

世の中には心配しても、どうしようもないことがたくさんある。
自分があることをしてしまった。もうそのことは変えようがない。

その結果は誰だって気になる。
やってしまったことだから、今さら心配したってどうしようもないと
あきらめる人もいれば、いつまでたっても心配している人もいる。

変えられない過去のことを、ああすればよかったのではないか、
こうしておけばよかったのではないかと、ぐずぐず悩んでいる。もうやだ~(悲しい顔)

そのような人は、何か心に葛藤があるのだろう。exclamation×2
問題は、ああでもない、こうでもないとくよくよ悩んでいることにあるのではない。

心の葛藤が、そのようにくよくよ悩むということを通して表現されているのである。

例えば、もともと自分は、このように生きるべき人間では
なかったのではないかという思いがある。ふらふら

自分の人生は、そもそも根本的に失敗だったのではないかという思いがある。
しかしそのような心の底の思いを、とうてい認めることはできない。

こんな生き方をしてしまった自分と、そんな生き方を強制した周囲に
言い知れぬ怒りを覚えている。しかしこの怒りを認めることはできない。

このような怒りや、根本的な失望感を抑圧していると、どうしてもそれが
現実の個々の選択の失敗への恐れとなってあらわれるのではないだろうか。