不幸を受け入れる
ある人は、生き方が下手である。要領が悪い。そして上昇志向である。その上に野心家。
こうなれば、その人は苦しむ。悩む。
苦しい時に「何で自分はこうなのだろう?」と悩む。
そして生きることは辛いと思う。事実、その人にとって生きることは辛いことである。
しかし、もしこの人が「私は要領が悪い」ということを受け入れることが
できれば、要領の悪さからくる不利益はあるかもしれないが、
そのことに苦しむことはない。
要領の悪い生き方をして苦しんでいるのは、その人の「こうであるべき」
という思い込みがあるからである。その心の姿勢があるからである。
もっと要領よく生きて、仕事の成果をあげることを自分に求めるからこそ、
要領の悪い生き方が苦しみになる。
あるいは、もっと仕事の成果をあげるべきだと思うから、今が苦しい。
要領の悪い生き方が上昇志向の障害になるからこそ、
要領の悪い生き方が苦しみになる。
その人が病的上昇志向でなければ、要領の悪い生き方は苦しみにはならない。
渡ろうとする者にとって、川は障害になるという。
眺める者にとっては、川は障害ではない。
不幸を受け入れることができれば、人は幸せになれる。
物事が自分の望む通りにいかない時に、不幸を受け入れている人は
物事はそんなにうまくはいかない、相手がいるのだから。と思っている。
些細な体験を苦しみに結びつけているのは、その人自身の心の姿勢である。
不幸を受け入れない人にとって、「要領が悪い」というのは
「要領が悪い」というだけの話ではない。それが苦しみの原因になる。