自分をどこかでごまかしている
「不眠症の傾向がなくなればもっと仕事が出来るのに」と言う人がいる。
その考え方自身が神経症的であるとは気がついていない。
自分は今寝られないのである。それが実際の自分なのである。
その不眠症の傾向のあるのがほかならぬ実際の自分であって、
いつでもどこでも熟睡する神経の図太い人が自分ではない。
自分が実際の自分の責任をとっていこうという姿勢があれば、
「もし自分が~だったら~なるのだけれども」という言い方はしないはずである。
「もし自分が~だったら~なるのだけれども」という言い方は現実の自分を無視しているのである。
現実の自分はそれほど有能に働けない、それが現実なのである。
それなのに「もし自分が~だったら~なるのだけれども」という言い方は、
現実の自分を受け入れていない。
さらのその様な人は自分をどこかでごまかしている。
実際は自分が劣っていると感じ、周囲におびえているくせに、
優越しているように周囲にも自分にも見せかけたりしている人がいる。
しかしそれは心の底で恐れていればそれが不眠症だとか性的不能だとか
いうところに表われるものである。
自分の悩みが解決されるためには自分が周囲の人から優越していなければならない。
悩まないためには自分は物凄く優れている必要がある。
その様な自分になれないのはある弱点があるからである。
「もし~だったら」という言い方は、その弱点がなかったら自分はその様な
理想的な自分になり、悩みから解放されるのにということである。
「もし自分が~だったら~なるのだけれども」という言い方は神経症なのである。
そしてこの理想の自我像への固執は、別の表現をすれば、間違った目標への固執ということである。
神経症の結果が間違った目標であり、また間違った目標がその人を
より神経症へと追い込む。つまり悪循環へと落ち込んでいく。