与えられたのは、求めていない愛という名の干渉だった

うつ病者はやればできるのに、しない。普通の人は、そう不思議がる。
それは、まず愛情が欲しいからである。

赤ん坊があやしてくれていたお母さんから、強制的に離されたらどうなるか。
赤ん坊は泣くだけで、やればできることでも、しない。

やればできることをしない大人も同じことである。
それをすれば困難を乗り越えられて幸せになれる。

その力がその人にはある。しかしそれをしない。
食べさせてもらう。自分が食べていくという姿勢がない。

それは愛情を求めたけれども、求めた愛情を得られなかったからである。
与えられたのは、求めていない愛情ばかりだった。
ただ干渉されただけであった。

うつ病者は、その時その時の心理的課題を解決しないで、
良い子になることで逃げてきた。
だから受け身。立ち向かわない。

それは、今まで自分の弱みを出せる場所がなかったからである。
本当の自分でない自分になることを、周囲の世界から強制されたから。

助けてもらおう、思ってもらおう、やってもらう。
誰かが教えてくれるだろう。自分で学ぼうがない。

自分の受け身の姿勢の原因を意識化し、解明し、それを乗り越える努力をする。
「なぜ?」と考えることが幸せにつながるのは、それで現実に直面するからである。

現実否認の人には「なぜ?」がない。
ここで恐ろしいのは、「なぜ?」といったん現実に直面しても、
そこでまた他人に責任転嫁したりして逃げることである。

あるいは、自分を責めたりして単に立派な自分を演じてしまうことである。
「なぜ?」と考えながらも、またそこで横道にそれる。

決して受け身になった自分を責めてはいかない。
受け身の人は、理由があって受け身の人間になったのである。

人はやる気のなさを隠すために自分を責める。
自分を責めていれば、努力しないで立派な人になれた気がする。