心のふれあいがある人間関係は財産となる

認めてもらいたいということで、その人のために頑張って何かをする。
しかし、それは認めてもらいたいということで頑張っているので、
その人が好きだからそのことをしているわけではない。

つまりその人に何かをしてあげていることが喜びではない。

犬の好きな人が犬の世話をする。
それは大変なことではあるが、世話をすることが喜びである。

何かをしてあげることが大変だけれども嬉しい。
認めてもらうためにすることはそういうことではない。

そしてその人が好きでその人のためにしたことは何よりも思い出に残る。
犬との心のふれあいが心に残る。忘れない。

知的記憶として残るのではなく、感情的記憶として残る。感情が記憶している。
したがって犬が死んでも何かの時にふと懐かしく思い出す。
体験が心の中に重なっていく。

しかし認めてもらいたいからしたことは、心のふれあいがないから
思い出に残らない。時が経てば忘れてしまう。

体験が心の中に積み重なっていかない。
つまり好きな犬との生活は、心のふれあいがあるから思い出に残り、その人の人生に重なっていく。

心のふれあいがある場合には、一つ一つの経験は辛かったり、楽しかったり、
喜びであったり、悲しみであったりするが、それが積み重なっていく。

しかし心のふれあいのない人は、いろいろなことをするが、何も心の中に積み重なっていかない。
一つ一つが懐かしい思い出となって積み重なっていかない。
それが自己疎外された人の人生である。

いろいろなことを一生懸命するのだけれども、振り返ったら心の中に何も残っていない。
認めてもらうために生きた人生の虚しさである。

何かのイベントがあるときに陰に徹する人がいる。
本人は陰に徹していることを意識していない。喜んでそれをしている。

すると、陰に徹したその人の幅が大きく見える。
そういう損得で感情の変わらない人が友人にいれば、それは心の財産である。