自己執着の強さに気がついていない
自分の立派さをアピールするということは、別の言葉で言うと
自己執着の強さを表しているのである。
高齢化社会になると、「私は年老いた親の世話をしている」と
自分の立派さをアピールする人もいる。
延々と話すのだが、どこまで言っても自分のことばかり話している。
自分はこんな風に親を世話しているというアピールである。
年老いた親がどうしたかは言わない。
階段を下りる時に抱えてあげた体が痩せてしまったとか、
抱えてあげたら背が少し猫背になっていたとか、そういうことは一切話さない。
自分がどのように苦労して親を世話しているかばかりで、年老いた親自身のことは何も言わない。
言うのは自分のしたことばかりである。
一緒に買い物に行って、親が何を買いたがったかは話さない。
自分が親を買い物に連れていって苦労したとしか話さない。
話すのは親のことではなく、買い物に連れていってあげた「立派な私」のことなのである。
話すのは、あくまでもそこで「苦労した私」なのである。
長い長い会話には、親自身のことは一切語られていない。
親を世話している「立派な私」のことが延々と語られる。
大切なのは親ではなく、自分だけである。
そして本人はもちろん、自分のこの自己執着の強さに気がついていない。
だから、自分は親の世話している「良い子供」であると信じている。
聞いている側からすれば、これならこの親は、自己執着のない他人に
世話されたほうがよほど幸せだろうなと思ってしまう。
つまり人を世話する話でも、とにかく話すことすべては「自分」である。
惨めさを訴える人の話を聞いていると、次の言葉を思い出す。
「神経症者は四方が鏡の部屋にいる」という言葉である。
どこを向いても、映っているのは自分だけという意味である。