自分を責めたからといって動揺する心が安定するわけではない
恋人が自分に何かをしてくれた時、その全体の中で好意的な気持ちの部分に
感謝するのが心の健康な人であり、全体の中で仕方なくしたという気持ちの
部分に注目し、恋人を責めるのが神経症的な人である。
自分が何かをした時、その自分の勇気の部分を褒めるのが心の健康な人である。
しかし何か新しいことをする時どうしてもドキドキする。
でもとにかくそれができたという時に、自分の小心なところを責めるのが
自分を憎んでいる神経症者である。
人前で話をする時、慣れていない人なら不安な緊張にさらされて当然である。
そんな時、どうしてこんなに小心なのだと自分を責める人は、
やはり神経症的なところがあるのだろう。
実際の自分を見ていないで、自分はこうあって欲しいという理想像しか見ていないのである。
そしてその理想像と合致しないドキドキする自分を責めている。
「どうしてこんなに臆病なのだ」「もっと大物にならなければダメだ」と自意識過剰になって自分を責める。
実際の自分を感じ取れれば、そこまで自分に求めるのは無理だということが理解できるに違いない。
情け容赦なく自分を責めている人は、自分を責めることに夢中になっていて、
ビクビクして傷ついているけなげなもう一人の自分に気がついていない。
同じことが恋人を責めている時にも言える。
自分の期待通りでない恋人を責めることにばかり気をとられて、
深く傷つきながらそこにいるかわいそうな恋人には全くといっていいほど気がついていない。
小心だといって自分を責め、誠意がないといって恋人を責めている人は、
無益に自分と相手を疲れさせているだけである。
慣れないのに人前で話をするというのは、ただでさえ緊張して疲れるのに、
さらに無益に自分を責めることは自分を疲れさせるだけである。
自分を責めたからといって小心な自分が大胆になれるわけではない。
自分を責めたからといって動揺する自分の心が安定するわけでもない。
むしろ逆に自分を責めない方が心は安定する。
自分を責めることは無益に自分を疲れさせるだけである。