内面からせきたてられる

小さな赤ん坊はまったくの白紙である。赤ん坊から、幼稚園、小学校、中学校へと
少年時代から父親の期待を内面化し、血肉化し、自らの良心とする。

父親の考えに逆らうことが悪であり、父親の考えに従うことが善なのである。
子供はそのように価値を学習していく。

少年の全身に浸み込んだ価値、それは父親の期待だった。
彼の神経症的自尊心とは、父親の期待の総体にほかならない。

愛情深い父に育てられた子供は、異なったものを内面化するだろうが、
権威に育てられた子供は出世すべく内面から急き立てられる。

この内面から彼を急き立てる声こそ、実は赤ん坊の時、青年の時、恐怖をもって
仰ぎ見た権威主義的父親の声なのである。

大学において、あるいはサラリーマンになってから、つまづいて傷ついた神経症的自尊心とは、
少年の日父親の期待に応えられず、どうしようかと怯えていたその気持ちなのである。

父親から叱られることが一番怖かった。父親から叱られることを避けるためならどんな
辛いことでもやった少年時代。

それがサラリーマンになったから部長や課長になれるなら、どんな辛いことでも耐えようと
するのと同じことなのであろう。

少年時代の恐怖が内面化されて、そうならなければ大変だと思っているのである。
正直な話、今の地位が辛いならやめればいいのである。現に世の中には威信に満ちたポストを
自分には荷が重いと断る人はたくさんいる。そういう人は燃え尽きない。

しかし、今の地位をやめられないのは少年の日の権威主義的父親への恐怖感故だろう。
内面化され、血肉化されてしまった恐怖感が、その辛い地位を辞めることを許さないのでは
ないだろうか。自分は偉くならなければ価値がないという感じ方である。

親への恐怖感を断ち切ること、あるいは密着を断ち切ること、これなくして自由などあり得ない。
もちろん、それだけが自由に生きられない原因ではない。
後はもって生まれた内因的な性格の問題もあろう。