自分に適した生き方が分からない

本当の自分ではない自分になろうとする努力は辛い。
直感力に優れた人に、倫理先行型の生き方を強要すれば、生きることは辛くなる。逆も然り。

そんな状態に身を置けば、いくら努力しても辛いだけである。
それはどんなに努力しても、自己不信に陥るし、辛いばかりである。

そういう人は成功してエリートコ-スを走っても生きることに疲れるだけである。
この種の苦しみを味わっている人はどにかく努力はする。
しかし努力の方向が間違っている。

例えれば猫が虎になろうとする努力である。
猫には価値がないと思い込み、自分は虎にならなければ生きる価値が
ないと思い込んでいる。だから努力しても辛いばかりである。

努力が自己確実感につながらない。努力が心理的に報われない。
努力するのだけれども幸せになれない。何をしても楽しくない。

そこで自分の生き方はどこか間違っているのではないかと思い始める。
小さい頃から頑張って生きてきた。勉強もよくした。

有名大学を卒業し、会社でも順調にレールに乗っている。それなのに何か生きていて辛い。
何をしても本当に楽しいということがない。
努力して求めるものが手に入っているのに、呪われている。

自分に適した生き方が分からない。それを探そうと必死になっている。
そういう人がしてきた努力は、自己否定の努力なのである。

努力そのものが間違っているのではなく、努力の方向が間違っている。
そういう人にも、もともとこうすれば楽しいということがあったかも知れない。

自分は商売をしていれば楽しいとか、一人で勉強をしていれば楽しいとか
あったかも知れない。しかしそれは価値がないと教えられている。

そういう人に、ありのままの自分でいいと言うことは正しい。
ただ単に欲望が肥大化しているだけの怠け者に向かってありのままでいいということは正しくない。