良い子は大人になっても真面目に努力するが最後には失敗する
情緒的に未成熟な親の元で育つと、大人になっても、
他人のお気に入りになることが、人から認めてもらう方法だと信じてしまう。
他人のお気に入りになることが、人から認めてもらう方法だということを親の元で学習してしまう。
ありのままの自分では、人は自分のことを認めてはくれない、そう信じてしまうのである。
そうなると自分を偽り始め、ついには実際の自分が分からなくなる。
幼い頃、人は周囲の人の好意が欲しい。その好意を得るためには、甘えたくても甘えない。
甘えないで我慢していると誉められる。そこで甘えてはならないということを学習してしまう。
従順な良い子は、人から愛を得る方法として、お行儀よく振る舞う、
大人の邪魔をしない、騒がない、勉強する、遊ばないなどを学習したのである。
お行儀よく振る舞わなければ責められた。
勉強しなければ責められた。責められるのが嫌だからそうしたまでである。
自然な子供、特に男の子は、小学校低学年ぐらいでは、女の子のスカートを
まくったりすることもある。
してはいけないことをすることで、彼らの中の反社会的欲求がはけていく。
子供の場合、悪い言葉を使うことで、心理的成長がなされることもある。
またいたずらで生きる知恵がつくこともある。それを彼らはずっと良い子で来てしまった。
子供は、わざと他人が困るような言葉、不快になるような言葉を使って、
自分の心を満たすことがある。
良い子には、こうしたいわゆる子供の世界がない。
実はお行儀よく振る舞うことは、自己執着の強い親からは
気に入られる方法ではあるが、心理的に健康な人から愛される方法ではない。
心理的に健康な大人は、お行儀よく振る舞う子供を必ずしも好きにはならない。
普通の大人は、子供らしい子供を好きになる。
お行儀よく振る舞う子供は大人の邪魔にはならないが、かわいくはない。
無理なく自然に振る舞う事が、子供としてかわいいのである。
彼らは、自然な子供の世界を体験しないまま、生きる知恵もなく、
かわいらしさもない良い子になった。
そうした生き方の結果、良い子の価値観は、自然な子のように柔軟性がない。
良い子が大人になった時には、人を判断するのに、不真面目でダメな人、
真面目で立派な人、この二つの基準しかない。
良い子のように感情のない人は、極端な感情をもつ。
人は人とふれあっていないと、どうしても歪んだ価値観をもつ。