現実の自分にはいろいろな限界がある
太り気味で元気な人がいる。痩せていてエネルギッシュな人がいる。
太目が体に合う人もいるし、細目が合う人もいる。
その人に最も適した体重がある。
無理にダイエットして痩せても体に悪いし、太ってもよくない。
同じように、人はそれぞれ自分が生きていて、最も快調である自分というのがある。
つまり体のことばかりでなく心理状態を含めて、人にはその人の最も適した状態というのがある。
その人の身長というのがあるように、その人の能力というのがある。その人の適性というのもある。
人それぞれ違うのは指紋ばかりではない。好きなことも違う。
ところがこれを無視して「こうあるべき自分」というのにこだわってしまう人がいる。
この理想の自我像を無理に実現しようとすると、現実の自分の能力は破壊される。
現実の自分には色々な限界がある。できることとできないことがある。
それなのに現実の自分のできることとできないことを無視して「こうあるべき自分」にこだわる。
「こうできない自分」を責める。「こうできない自分」を憎む。
「こうあるべき自分」に現実の自分を合わせようとする。
では、「こうあるべき自分」はどこから出てくるのであろうか?
一つには親の期待を内面化するところからであろう。
もう一つには幼い頃の心の傷を癒すための自分からであろう。
それは深く傷ついた自尊心を回復するために必要な自分である。
支配的な親を持ってしまった子供の悲劇は、まず「自分はどうあるべきか」
から人生を出発してしまったことである。
そして自分は実際にどのような人間であるかということに注意を払うことなく生きていることである。