済ませるという形で人生に立ち向かうことはおかしい

うまく過ごせた一日とは、日常の営みを一つ一つうまく済ませることが
できた一日なのである。しかし、次に済ませるべき睡眠というのが出てくる。
それも早く済まそうとする。

一刻も早く、効率的に済まそうとするから、不眠症にもなることがあるだろう。
眠ることも済ますことだから、早く眠ろうとするのは、仕事を早く済まそうと
するのと同じである。

客観的に見れば、ほとんどのことは済んでいるのである。
済んでいないのは心の方であって、仕事の方ではない。

このような感じ方をすれば、人間は一生何も済まない。
学校を済ませ、仕事を済ませ、結婚を済ませ、子育てを済ませ、老後を済ませ
なければならない。

だが、学校も、仕事も、子育ても、べつに済ませることではない。
仕事は済ませることではなく、することである。
そのような人にとって、全ては済ませること、かたずけることである。

ところが、何事も済まないから、いつも落ち着かないのである。
済ませる、かたづけるという形で、人生の営みに立ち向かうことがおかしいのである。

絶えず、あれもこれもと、山ほど済まさなければならないことをかかえて
焦燥感に苦しんでいる人は、小さい頃の自分を反省してみることだろう。

あれをしなさい、これをしなさいと、いつも親から追い立てられていることは
なかっただろうか。親自身の不安を感じとって、親に甘えることもできず、
ただただ、達成すべきことを達成しようと必死に努めていたのではないだろうか。

同じ状態だって自我の確立された人は、あれも済まさなければ、これも
済まさなければと感じないだろう。