なぜ自分をいじめようとする人間にお世辞を言わなければならないのか
いじめられる人はたいてい愛情欲求が満たされてなく、
心に甘えが残っている。
幼い頃から、保護と迎合という関係で生きてこようとして、
自我の確立がないのである。自分を守るのに迎合しか知らないのである。
大人になって迎合したからといって、意地悪な人から自分を守ることなどできない。
幼い頃親をがっかりさせることが恐かった。
親の期待にかなうことを言い、親の期待にかなう行動をし、
親に喜んでもらうことが生きることの意味であったというような人は弱い。
自分をいじめようとする相手に対してさえ、相手の意にかなおうとする。
つまり極端に言うといじめられるようにしないといられないのである。
相手が自分をいじめられなかったとがっかりするのが恐いのである。
幼い頃親の非現実的なまでの期待に応えられなくて、親が深い失望の
ため息をついた時の地獄の苦しみが身にしみ込んでいる。
大人になっても相手に失望されるのが恐いのである。
相手の失望が引き金となって、幼い頃の地獄の苦しみが再び感じられるのである。
決して今の苦しみではない。
なぜ自分をいじめようとする人間にお世辞を言わなければならないのか。
自分をいじめようとしている人間に怒りを感じるのが当たり前ではないか。
相手を失望させるのが恐い人は、自分の幼い頃の恐怖をじっくり考えて
みることである。
相手を失望させるのが恐くて、言わなくてもよいことを言う人は、
このことによってもっと相手を失望させることが恐くなる。
いつも相手を失望させるのが恐くて相手の気に入りそうなことを言う人間になる。
恐怖に動機付けられた行動は、結果としてその人の恐怖を増加させるだけである。