悩んでいるだけの人はたいていずるい
人に足を引っ張られたからといって、すべての人が同じように苦しむのではない。
淡々と自分のすることをしている人もいる。
こういう人にはいつか運が向いてくる。誰かが見ているものである。
人に足を引っ張られたときに、その人の悪口をばかり言っていつまでも恨んでいる人もいる。
見ていると、そういう人からは運も逃げていく。
自分から運を寄せつけないでおいて、運が悪いと嘆いている人は多い。
よく「私は弱い」と自分の弱さがオールマイティーのように言う人がいる。
しかしそういう人の弱さは、視点を変えれば「ずるさ」に通じる。
人はよく「弱い」という言葉を使うから、反省の機会がなくなるのである。
「私は弱いんだ」と言ってしまえばそれですんでしまう。
よく見ていると、くよくよ悩んでいるだけの人はたいていずるい。
「弱い」と言ってしまうから自分がわからなくなるのである。
「私は弱い」と言ってしまうから自分を見失うのである。
「私はずるい」と言えば反省もできるし、自己実現の機会にも恵まれるし、未来もある。
自己弁護の視点を変えれば未来は開けてくる。
自己弁護の視点にとらわれているから、周囲との関係もうまくいかないのかもしれない。
そういう視点からの言動が周囲の人を不愉快にさせているということもある。
やりたい放題をすることを勇気と勘違いしている人もいる。
衝動のままやりたい放題をすることは、単なる無謀でしかない。
自分の感情のままに動いてすごいことをしているような錯覚をもっている人がいる。
勇気とは、どこかで自分を犠牲にすることである。
だから勇気なのである。