癒着とは、まといつくことである

摩擦がありながらも「私達」という感情が育ってくる集団と、
密に寄り添いながらもばらばらの集団とがある。

「私達」という感情が生じてくる集団というのは、温かい雰囲気をもち、
それぞれの成員が、自分の感情や考え方を自由に表現できる集団である。

自分の感じ方をする自由があると成員が思っていることが重要なのである。
それは時に衝突も起きる集団である。

考え方が違う時があるのだから、自分の意志と他人の意志は違うので
あるから衝突は起きる。これは健康的な摩擦であろう。

癒着にあっては、このような健康的な摩擦はない。
もともと個人の自由な感じ方、考え方を許されないのであるから当然である。

このように愛と摩擦の中で、他人と共に成長していくならば、その人は
真の自分と共に成長していく。

親が子供を自分の側にとりこみ、子供を自分の思い通りにすると
いうことは、その子にしてみれば、自分の感じ方、自分の考え方をする
自由がないということである。

まといつくことと愛情とは違う。癒着というのは、まといつくことである。
癒着とは、つたのようにまといつくことである。
まといつくほうが強い時、まといつかれたほうは枯れることになる。

親子の癒着からは、私達という感情は生まれてこない。
癒着というのは、病的な世界であり、その世界でいわれることは、
普通の世界で意味することとは違うから、注意する必要がある。

その癒着という世界でいわれることは、どんなに言葉が立派でも
意味する内容は違うことに注意しなければならない。

癒着の世界で「愛情」ということは「からみつく」ことであり、
真の愛情の否定でしかない。
「親孝行」ということは、親への「幼児的依存心」ということである。