心理的に健康な人は帰る自分を持っている
相手の声の調子一つで存在が脅かされるということは、
相手がそこまでその人にとって重要であるということである。
相手なしに生きられないからこそ、相手の声の調子にさえ心が動揺してしまう。
時にはそれだけで生きる気力を失ってしまう。
相手の不機嫌に接して深い悲しみの底に突き落とされる。
心が不健康な人の悲劇は、そこまで相手なしに生きられないのに、
相手と心の底で触れ合っているわけではないということである。
相手なしに生きられないにもかかわらず、相手を恐れている。
これが依存の悲劇である。
相手なしに生きられるなら相手を恐れたりはしない。
相手の声の調子一つで悲しみの底に突き落とされるようなことはない。
相手なしに生きられるようであれば、相手が不機嫌でもそのうち
もとの相手に戻るだろうと楽観的に相手の不機嫌を捉えることができるであろう。
つまり彼らにとって極めて重要な相手だからこそ、声の調子にも
自分の気持ちが完全に支配されてしまうのである。
心理的に健康な人は帰る自分を持っている。
しかし心理的に不健康な人は帰る自分がない。
相手にしか帰るところがない。
相手の不機嫌は自分の根拠地がなくなることなのである。
相手からしてみれば自分を帰るところにされて、いい迷惑である。
自分の声の調子まで束縛されることは息苦しい。
私のことをそんなに正面から青筋立てて考えないでほしい、
もっと気楽にしていてほしい、たいしたことではないのだから、
ということになるであろう。
ところが相手に心理的に依存している彼らにしてみれば、
たいしたことはないのだからという訳にはいかない。
声の調子が不機嫌だということで震え上がってしまう。
たいしたことないことを、たいしたことないと受け取れることは
その人が心理的に健康であるということである。