わだかまりがありながら、何となく離れられない
神経過敏で心に葛藤のある人は、すぐに拗ねたり、僻んだりする。
そんな時、周囲の人はどうしようもない。
なぜなら、拗ねている当の本人が、自分で自分をどうしていいか分からないのであるから。
また周囲の人間にどうしてほしいのかも、当の本人自身が分からないでいる。
したがって周囲の人間がどのように対しても、何かしらの不満が残る。
私はあなたにこうしてもらいたいということを、ハッキリと
相手に言える人は、あまり拗ねたり、僻んだりしないものである。
なぜ、自分でも自分をどうしていいか分からず、かつ人にどうして
もらいたいかもハッキリ分からないかといえば、それは自分の感情を素直に認めることができないからである。
わだかまりがあって、相手とひとつの感情に溶け合うこともできず、
かといって相手が離れていくことも、何となくできない。
離れていくことが、なぜ何となくできないのか。
これもまた、自分の感情を自分が素直に認めることができないからである。
もっと具体的に書けば、裏切ることが怖いからである。
親の期待にそわないことを、親への裏切りと子供は感じるのである。
したがって親の期待にそえないと罪の意識を持つ。少し違うが、捨てられるより、
捨てることの方がはるかに辛いという。
それは捨てられる側は罪の意識に苦しまなくてもいいが、捨てる方は罪の意識に苦しまなくてはならないからである。
捨てられた苦しさは時と共に薄れていくが、裏切りから出てきた罪の意識はそう簡単に消えるものではない。
それほど裏切ることは辛い。
そして、わだかまりがありながらも、何となく離れられないのは、やはり裏切ることができないからである。
しかし、親の期待や他人の期待を裏切ることは、それほど罪なことなのだろうか。
親や他人が彼らに都合のよい存在であってくれという期待を
自分にかける時、その期待にそむくことは決して罪ではあるまい。
それこそが自立するということである。