問題は自分は何かでなく、自分を何だと思っているかである
自分の言動に自分が責任を持たなければならないということは心には大変な重荷である。
何を買うかも、どこで学ぶのかも、将来どうするのかも、皆世間並ということを基準に考える。
世間並というのも世間に責任を転嫁している。
慣例に従う、前例にならって、みなこのような言葉で自分の責任を転嫁している。
自分のすることの責任を取るということが、人には何よりもストレスになるのではないだろうか。
相手の言うことに従っているほうが心理的に楽である。
従順というのは心理的に楽である。世間とか、前例とか、あの人が言うからとか、
自分のすることや言うことの基準を自分の外に求めるほうが心理的に楽である。
心理的に楽というのは、心の重荷がないということである。
何をするか、それをどこまでするか、それらを自分の内面の基準に従って決めるというのは
心の負担である。大変なストレスになる。
前例に従って決めるというときには、前例が自分を支えてくれる。
「あの人が言ったから」決めるというのは、「あの人が言ったこと」が自分の心を
支えてくれるということである。
心の負担が重いか、軽いかということは、自分のすることを何が支えてくれるかという問題である。
何を、どこまでするかというときに、自分の内面の基準にしたがって、他人を説得すると
いうことが心の負担になる。
自分の内面の基準にしたがって、自分のすることに自信をもって他人に向き合えるか
向き合えないか、それが自律性の問題である。