心の奥のやましさが、息子の暴力に立ち向かわせない
家庭内暴力は愛着人物に対する抑圧された敵意が表面化したものである。
憎しみの対象に対する暴力ではない。もともとは愛着人物に対する暴力である。
そこで家庭内暴力はいわゆる単純な暴力とは異なった性質を持ってくる。
子供は母親に一緒にいてもらいたい。しかし母親のすることがいちいち気に入らない。
おそらく今まで甘えを良くないことと排斥してきたなかで、愛情飢餓感に
苦しんでいるからであろう。そしてもちろん敵意の抑圧もある。
敵意を持ちながらも、愛情を求めているから、しつこく相手を責め苛むのである。
また他方で自分を認めてくれという要求でもある。
自分は決してダメな人間ではないのだと信じたい。
しかし心の底では、自分はダメな人間なのだという感じ方がこびりついている。
「自分をこんな人間にした責任をどうとるのだ」と暴力をふるう子供は
自分を優れた人間であると信じたい。栄光化された自分のイメージにしがみついている。
しかし、しがみつきながら心の底で自分を信じられない。
親に、自分をこんなにした責任をどうとるのだと暴力をふるいながら
もともと自分はこんな人間ではなかったということを自分に信じさせようとしている。
しかし、それがどうしても信じられない。
このように、
「もう、どう生きていいか分からない」という叫びが家庭内暴力である。
「この俺をどうにかしてくれ」という叫びでもある。
この叫びを理解しないで、母親は「自分をこんな人間にした責任をどうとるのだ」
という子供の言葉に応えようとすることが多い。
子供を家庭内暴力にする母親だけに、子供の心を理解していない。
子供の言葉をそのまま真に受ける。
この言葉で子供は何を意味しているのかという、子供の心を見ようとしない。
もし言葉ではなく、子供の心を見れば、子供の心が理解できるに違いない。
さらに家庭内暴力の場合、母親は子供の暴力に立ち向かわない。
子供の暴力に任せる。自分の腕を折られるまで暴力に身を任せる母親もいるという。
なぜわが子の暴力に立ち向かわないのか。
それは母親は子供を本当に愛していなかったということを心の底では知っている。
その心の奥のやましさが、息子の暴力に立ち向かわせないのである。