淋しいから嫌いを意識できない

自分の自然な感情を抑えて、人から好かれようとして生きている人がいる。
その結果、人から嫌われないですんだとしても、生きるエネルギーを失ってしまう。

そして、ここまでしたのにと人を恨み、人の不幸を喜ぶような人間になってしまう。
我慢をすれば人が嫌いになる。

不本意に謝ればその場は対人的に収まるかもしれないが、心の中ではその人を
嫌いになっている。本当に納得して謝っているのなら別である。

怖くて謝った場合には相手を嫌いになっている。
また仕方がないから謝った場合にも嫌いになっている。

例えば生活のためとか、何か謝らなければならない事情があって
謝っている場合には相手が嫌いになっている。

そして何よりも相手が嫌いになると同時に自分も嫌いになっている。
だから良い子はみんなが嫌いなのである。自分も嫌いなのである。

そして嫌いが進めば憎しみになる。謝りたくもないのに謝らされたときには
嫌いを通り越して憎しみになっている。

そしてその場合には自分が自分を憎むようになっている。
良い子は幼い頃から心ならずも色々な場面で謝って生きてきている。

謝りたくないのに謝れば、心は傷つく。
自分を嫌いな人、自分を憎んでいる人は、同時に傷つきやすい。

心ならずも謝り、自分で自分を嫌いになってしまった良い子は、
もう心の底では誰も彼も嫌いになっている。

良い子はみんなが嫌い。しかし寂しいからその嫌いという感情を意識できない。
大人になっても事を収めるために自分を抑え、いい人になっている。
そうして心理的破綻が続く。