相手があることはこちらで何かを決めても意味がない

相手を理解し、自分を理解する。つまりお互いに身勝手。
そう理解していれば利害が対立しても、怒りにはならない。

しかしこうあって欲しいという願いではなく、要求となったら話は別である。
要求が通らなければ怒りになる。

自分の思う通りにいかないたびに怒っていたら、怒りで日常生活は成り立たない。
心の安らぎを得たいなら、自分の人生に非現実的なほど高い期待をかけないことである。

自分の人生に非現実的なほど高い期待をかければ、怒りで夜も眠れないし
日常は、楽しくはならない。

非現実的なほど高い期待とは、相手が身勝手な自分の思う通りに
動いてくれると期待することである。

願いが要求になるのは神経症者である。だから彼らはいつも怒っているのである。
そうしてあっちでもこっちでもトラブルを起こす。

世の中バカばかりなどと言いながら孤立する。
自分の身勝手は通らない。通ったものは身勝手ではない。自分にふさわしい期待である。

身勝手な願いであるにもかかわらず通ったら、その場合には相手から恨みを買っている。
いつかツケはくる。その時は利子がついて大きなツケとなっている。

こちらの身勝手が通った時は相手は痛手を受けている。
こちらが忘れていても、痛手を受けた方は忘れていない。

また相手のあることは、いくらこちらで何かを決めても意味がないことも多い。
この世の中で、自分一人生活しているわけではない。

いくらそれはおかしいと怒っても、世俗の世の中にはいろいろなおかしい人がいる。
確かにその人達は心理的に病んでいる。

しかし世の中には現実に心理的に病んでいる人がいるのだから、
それはそれとして生きていくしかない。

大切なのはその時に、おかしいのはその人達で、自分がおかしいわけではないと
自覚することである。

それをハッキリと自覚していないと心身ともに消耗してしまう。