常にある申し訳ないという気持ち
与えることを喜ぶ人と、与えることは貧しくなることと感じる人とがいる。
与えることは貧しくなることと感じる人は、たとえ子供のためであっても
与えることを辛く感じる。
従って与えることにどうしても恩着せがましさが出てしまう。
与えられた者は感謝しなければならない。
たとえ自分の欲しくないものを与えられても感謝しなければならない。
与えることは貧しくなると感じる人に囲まれて成長した人は
どうしてもいじけてしまう。
他人が自分に何かしてくれることはあっても、それは喜びではない。
自分は他人の愛を十分に受けるに値しない存在なのだ、と感じているからである。
相手にとって自分はそれだけの存在でしかない。
他人にとってそれだけの存在でしかないのに相手の力に頼って生きていかなければ
ならない、となるとどうなるか。
自分の存在に負い目を感じる。
すまない、申し訳ない、他者にむかって常にすまない気持ちになっているのは、
何よりも与えることは貧しくなることという人に囲まれて成長したからであろう。
情緒的に成熟した親は、子供の世話をすること、そのことに喜びを感じる。
親は子供に与えているのだけれども、その与えるという行動の中に喜びを感じる。
このような親は与えているのだけれど、子供から与えられていると感じる。
相手のために相手のことをしながら、それが嬉しい、と感じる人が
情緒的に成熟した人である。
子供の世話をしながら、子供から喜びを得ている人は、子供に恩着せがましく
なることはない。
人は他人のために何かをすることで自分の生きてる意味を感じ取れる。
他人に対してもったいぶって何かをするのではなく、単純に自然に何かをするとき、
本当に他人のためにも自分のためにもなっているのである。
他人に対して何らかの効果を狙って何かをするなら、しない方がよいであろう。
自分を犠牲にしなければ、他人のために尽くせない、という人は
自分の情緒的未成熟を反省することである。