情緒的未成熟者の日常は、通常行き詰っている
情緒的未成熟な人間は、辛いことがあるとすぐに、他人に「死にたい」と言う。
しかし、決して死ぬという決断ができない。
誰にだって長い人生で「死にたい」と思う時はある。
ただ、そう思うことは思っても、死のうかどうしようか迷うのではなく、
生きる方法を探すのが普通である。
ところが情緒的未成熟な人間は、水を飲もうか飲むまいか、トイレに行こうか
行くまいか・・・から始まって、死のうかどうしようかまで悩んでしまう。
休日に眼が覚めて、今日は街に出て朝食をとろうと思ったら、
街に出る方を選ぶことである。
どうしようかと考えて迷う人は、たいてい止める方に落ち着く。
別に止めてもいいのだが、どうしようか考えていて、その選択の悩みで
情緒的エネルギーを使い尽くし、疲れてしまうのである。
情緒的に成熟した人から考えると、あの人と結婚しようか、この人と結婚しようかとか、
会社を辞めようか、どうしようかということで悩んだのなら選択の悩みと言ってもいいが、
眼が覚めて部屋で朝食をするか、晴れているから街に出て朝食をするかということで
選択の悩みなどとは大袈裟過ぎると言うかもしれない。
しかし、情緒的未成熟な人間にとっては、そうした日常の些細なことについても、
やはり選択の悩みは大変なものなのである。
休日に家にいて、散歩に出かけようかどうしようか、という時にも考える。
そして、どうしようかと考えてエネルギーを使うが、そのあとどちらを選んでも、
また後悔でエネルギーを使う。だからこそ肝心の仕事にエネルギーが残っていないのである。
学生時代の友人に会いたいとふと思う。
そしたら、すぐに電話をする方を選ぶことが大切である。
そうした時、このタイプはすぐに、会ったら何を話したらいいのかとか、
話題がなくて気まずくなるのではないかとか、遅くなって明日の仕事にさしつかえないかとか、
もし断られたらどうしようかとか、とめどもなく考え出す。
はじめにふと心に浮かんだ思いは、自然な欲求なのである。
ところが、そのあと彼は、それを実現した時のネガティブな方ばかりを考えはじめる。
そして止める。止めて家路につくと、ああ彼に会えばよかったと後悔をはじめる。
パターンはだいたい決まっているといってよい。
情緒的未成熟というのは、どこかで自然の成長が止まってしまったことなのである。
情緒的未成熟者の日常は、通常行き詰っている。
ところがこの人達は人生が一気に大回転するような大突破口を求めている。
しかし、そのようなことがじっとしていて眼の前に起こりうる筈がない。