寂しいから親しくもないのに長い人生をともに過ごした
今日という結果は、昨日が原因ではない。今日までの何十年間の積み重ねである。
生きるのが楽しくないときに、まず過去を反省してみることである。
そして過去を振り返って、どこまでが本当の自分で、
どこからが自分でない自分だったか考えてみる。
その中でも大切なのは、過去に自分がかかわった人は、どういう人であったかという反省である。
自分が深くかかわった人のことを考えてみる。今、その人と会いたいか?
その人が懐かしいか?
あの人と、この人との懐かしさの違いを考察する。
今不幸な人はおそらく、それらの過去の人に会いたくないという
自分に気がつくのではないだろうか。
もう一緒に仕事をしたくないという自分に気がつくのではないだろうか。
それは、いかに間違った人と深くかかわっていたかということである。
いかに心ない人と深くかかわっていたかということである。
それは自分の側にも心がなかったということである。
自分が適当に相手と接しているから、相手の本質がわからない。
相手も適当にこちらと接しているから、こちらのことがわからない。
お互いに根本的なことがわからない。
では、なぜそうした人と表面的には深くかかわって人生を生きたのか?
それはひとつには寂しいから。
もうひとつは、そのときにはそれらの人と付き合うのが都合がよいから。
その場その場が都合よいので付き合っているうちに、
親しくもないのに長い人生をともに過ごすことになっただけである。
自己疎外された人は、好き嫌いがはっきりとしない。
好き嫌いより、便利か便利でないかのほうが、判断基準として有効である。
友人も、合理的な社長にとっての社員と同じで、いくらでも代替可能である。