対象喪失に伴う感情は味わわなければ心理的成長はない
お金に執着していたり、地位に執着していたり、恋人に執着していたり、
失われた日に執着していたり、いつになっても諦めきれない人がいる。
そのような人はもともと十分な関心を親から得られず不安であり、
その不安を解消するために何かにしがみついていなければ
いられないのではないだろうか。過剰な願望も同じである。
あれもこれも満たさなければならないなどというのは不安だからである。
それは欲望そのものの性質とは考えられない。
通常、対象喪失というと、例えば親が死亡するとかそのようなことを考える。
しかしむしろ大切なのは親を失うということよりも、親がいるのに
自分に十分な関心を持っていないというようなことではないだろうか。
何故それが大切かというと、現実に親を失ったときには、自分に対象喪失が
起きたということを理解する。
そして大人になってその当時を振り返ったとする。
すると例えば自分はその当時余りにも悲しくてその悲しさに耐えられなくて、
その悲しみから目を逸らした、そして自分の感情を味わうことを拒否した、
等々ということが理解できてくるかもしれない。
しかし実際には親はいる。すると自分には対象喪失は起きていないと思う。
しかし現実には対象喪失と同じことが起きている。
親が冷たい利己主義者で子供を愛するまでに情緒的に成熟していないとする。
子供の側からすれば親との感情の交流を全くしないまま大人へと成長していく。
子供は親に関心を持たれたいし、感情の交流が欲しい。
しかしそのようなことは一切起きない。親への期待は全て裏切られる。
このときに実際には対象喪失が起きているのではないだろうか。
そして悲しみの感情から目を逸らす人もいるに違いない。
悲しいのに悲しくないと思う。そして自分の親は素晴らしい人だと
自分に言い聞かせて、そのように思い込む努力をし、かつそう思う込む。
しかし悲しいのに悲しくないと自分に言い聞かせては、その悲しみの感情は
いつまでも心の底に残る。
やはり大切なのは悲しいときに悲しいと涙することなのである。
悲しいときに悲しみを味わうことで人は心理的に成長する。