自分の価値を証明しないではいられない
神経症者に最も影響を受けるのは、神経症者に対して自分の重要性を誇示しようとする人である。
攻撃的神経症者は相手の重要性を死んでも認めない。
認めさせようとして認めないから腹を立てる。
力ずくで認めさせようとする。この争いは熾烈をきわめる。
なぜそうなるのか。それは双方とも神経症者だからである。
つまり神経症者に最も日常生活を乱される人もまた神経症者である。
相手に自分の重要性を認めさせることによってしか自分の存在を
確認できないのは神経症者である。
また相手の存在を認めたら自分の価値がなくなるように感じているのも神経症者である。
この二人が出会えば陰湿にして熾烈な争いがはじまるのは理の当然である。
情緒的に成熟した人は神経症者と関わりなく生きようとする。
決して自分の重要性を神経症者に認めさせようとか、神経症者をやっつけてやろうとかしない。
負けるが勝ちというのは情緒的に成熟した人にいえることである。
それに対して情緒的に未成熟な人は神経症者と争い、その犠牲になる。
勝っても負けても犠牲となる。負けるが勝ちなどとは到底言えない。
愚かな争いで貴重な人生をムダに使う人は多い。
情緒的に成熟した人が神経症者の言動に腹を立てたり、その犠牲に
ならないのは、神経症者が自分をどう解釈しようが平気でいられるからである。
情緒的に未成熟な人が神経症者の犠牲になるのは、神経症者に
自分を勝手に解釈させて平気でいられないからである。
自己中心的な人と自己中心的な人との争い、、
独りよがりな論理と独りよがりな論理との衝突。
これは果てしなく続く。この不毛な戦いに生涯を費やす人がいる。
情緒的に未成熟な人も神経症者も心理的に孤立して生きているからであろう。
だから双方ともに自分の価値を証明しないではいられないのである。
陰湿な争いに心理的に関わり出したときには、誰か愛する人を見つめることである。
愛する人を見つければその争いが無意味に思えてくる。
勝っても負けても意味のない戦いだと感じている。
人を愛することができる人は、このような陰湿にして不毛な諍いに命を費やすことはない。