現実の親は自分を拒絶している

誰でも自分にとって重要な人間から関心をもってもらいたい。
親の子供に対する関心が自分の所有物に対する関心であっても、
子供は関心を持たれていると思う。親も関心を装う。

共生関係において一方を失うことは他方にとって衝撃である。
それだけに愛していると錯覚する。

母親がもし本当に子供に対して共感的理解を示せるなら、子供の心には葛藤が起きないであろう。
母親が嫌いなことでも子供が好きなことがある。母親がしたいことでも子供がしたくないことがある。

そのように子供を自分とは別の人格として感じることができる親がはじめて子供を理解しているのである。

自分が家族で旅行したい時、子供もまた同じように望んでいるはずだとしか
思いようのない親には子供の理解は無理である。

共感的理解能力のある両親をもったら、子供がどうして不安神経症などになろうか。
心の温かい両親に恵まれた子供は、どんなに経済的に貧しくても
心豊かな大人になるのではないだろうか。

現実の親は自分を拒絶している。
愛と関心を装ってはいるけれど、既に自分には関心をよせてくれる親はいない。
事実は「親はいない」のである。

それを認めることは最も難しいことかも知れないが、現実なのである。
愛と「愛と見えるもの」との違いは親子の間でよく分かるという。

幻想にしがみついて生きている人がいる。
それらの人は、それなしに生きていかれないような気持ちになっている。

自分を束縛する鎖に自分からしがみついて生きている人は多い。