真実は非言語的メッセージにある
コミュニケーション能力がなければ、人から認められ、好かれることはない。
幼い頃、親からのメッセージで、非言語的メッセージと言語的メッセージが
矛盾している時がある。
嫌な顔をして「いいよ」と言う。
「お前の好きにしろ」と言葉では言いながら、不機嫌な顔を見れば、
それをしてはいけないと言っている。
親が発するメッセージが常に矛盾を含んでいれば、
子供のコミュニケーション能力は崩壊する。
非言語的メッセージと、言語的メッセージの違いを理解できるかが
コミュニケーション能力である。
言葉は深刻だけれども、顔色とか声の音調とか非言語的メッセージから、
これは冗談半分だと理解できる。
日常生活の会話には、よくこのようなことが起きる。
この時に、コミュニケーション能力のない人は、言葉だけに反応する。
すると周囲の人が驚く。しかし周囲の人の態度が本人は不愉快である。
本人は人から自分の反応を認めてもらいたい。
「親切ね。ありがとう」「やさしいのね」、
そのような主旨のことを周囲の人に言ってもらいたい。
相手が軽い気持ちで言っていることを、コミュニケーション能力のない人は
真剣に受け止める。そうすれば周囲の世界とは、ずれてくる。
しかしコミュニケーション能力のない人は、「なぜ、ずれたか」が
理解できないから、周囲の世界に怒りを覚える。そして不愉快になる。
言語的メッセージと非言語的メッセージが矛盾した時には、
真実は非言語的メッセージにある。
日常生活での会話は、その真実のほうで流れていく。
しかしコミュニケーション能力のない人は、言語的メッセージで動く。
そこで周囲の人と食い違いが生じる。それが不愉快である。
軽い言葉だから聞き流せば良いことを、言葉に反応するから聞き流せない。
そして周囲の世界とトラブルを起こす。
コミュニケーション能力がないから孤立した時に、自分には
コミュニケーション能力がないと認めることが心理的成長である。
しかし自分の気持ちが通じない時に、「何故だ?」と考えることは辛い。
周囲の人に対して怒っている時に、自分にはコミュニケーション能力がないと
認めることは地獄である。
しかしこの地獄を通らなければ天国に行かれない。