子供は安心して身をおく場所がない

神経過敏な人は、相手の好意を求めながらも、その好意に身をまかすことはできない。
周囲から好意を得られれば、その好意に対して恐縮してしまう。
好意にさえ委縮してしまうのである。

それは幼児の頃から親との関係で条件づけられた反応の仕方だからである。
「お前は良い子だな」と頭をなでられても、それは自由に振る舞った結果として
良い子なのではなく、親の虫のいどころのよい結果として良い子であったのである。

「お前は良い子だな」と頭をなでられることで、子供は反発することを
内面的に禁じられ、しかも相手に対しては心を許すこともできない。
子供はそんなにっちもさっちもいかない状態に追い込まれる。

大人になってから周囲の好意に対してさえ委縮してしまうのは、このような幼児、
少年少女時代に条件づけられた反応なのである。

神経過敏な人は、人の好意に接したり誉められたりすると、どうしていいか
分からなくなる。誉められれば誉められるほど、委縮してしまう。

他人の賞賛を求めながらも、賞賛に接すると委縮してしまう。
「ノー」と言いたい時、つい「イエス」と言ってしまう人も、小さい頃からの
親子関係をもう一度振り返ってみることである。

小さい頃、「良い子だな」と頭をなでられたのには、二つのメッセージが含まれて
いたのである。

一つはまさに良い子という意味であり、もう一つは、自由に振る舞ってはいけない、
親の言う通りになっていろ、極端に言えば親のペットになれという意味である。

しかし、その良い子というのは、何かの実績をあげた結果として良い子なのではなく、
たまたま親の気持ちのあり方で、良い子になったにすぎない。

つまり、良い子と言われたからといって、自分の側には良い子であるという自信が
あるわけではない。たまたま偶然の好運によって良い子になったにすぎない。