周囲の人の言葉が自分を拒否した言葉に思えてくる

いつも怒っている人がいる。つまり怒りっぽい人である。
何でこんなにすぐに怒るのだろうと周囲の人は不思議に思う。

だから周囲の人は接しなければならないときでも当らず障らず接する。
必要があるとき以外は接しない。だからそういう人には親しい人はいない。

傷つきやすいということを言い換えれば、不幸になりやすいということでもある。
そして不幸な人は不幸の原因が、自分の外側の環境にあると思っている場合が多い。

そうではない。自分が自分を傷つけているに過ぎない。
自己蔑視という心の箇所を通ると、人の言葉の意味が違ってくる。

そこで言葉の意味が違ってくる。そこで言葉の色が変わる。
相手側からすると、そんな意味で言ったのではないということである。

その人が、自己蔑視している人だとする。
侮辱されていないのに、侮辱されていると感じてしまう。

バカにされていないのにバカにされたと認識してしまう。
悪口でないことを言われても悪口に聞こえる。

小さなことでも、大きなことに感じて傷つく。
その人は周囲の人を軽蔑することで、自分の心を癒していた。

自己蔑視している人が親なら、子供を軽蔑することで、自分の心の
葛藤を解決しようとしていた。

自己蔑視している親の子供は常に軽蔑されていた。
親が何を言っても、その言葉の裏には「お前は馬鹿だ」というメッセージが
隠されていた。

何でもない日常生活の言葉の裏に「お前は生きるに値しない」という
メッセージが隠されていた。

そうして育てば、大人になって、周囲の人からの言葉が自分を拒否している
言葉に思えてくるのも不思議ではないだろう。

それこそ何でもない「それはこうしたほうがいいよ」という親切な言葉も、
「お前は馬鹿だ」という意味に受け取ってしまう。

そして傷ついて怒りを感じたり、その怒りを抑えて落ち込んだり、
劣等感に苦しんだりするのである。