恐怖にとらわれると物事を悪く悪く解釈する

小さい頃、暗い所に行く恐怖心、一人になる恐怖心、
そんな恐怖心が大人になっても心の底に残っている人がいる。

何かを判断しようとする時にその恐怖心が刺激される。
その判断によって自分が一人になるかもしれないからである。

その決断によって自分が責任をとらなければならなくなることもある。
責任というのは、一人で背負ってこそ責任なのである。

小さい頃、暗い所に一人で残された恐怖、そんな恐怖が一人で責任を
負う時に顔を出す。

小さい子は、一人では生きていけない。一人にされる恐怖は死の恐怖である。
親の拒絶の恐怖にさらされながら育った人は、いつも死の恐怖に
さらされていたのであろう。このような人は、小心で臆病にならざるを得ない。

執着性格者の正義感なども、小心から出たものであろう。
悪いことをしてはいけないという自分自身の判断ではない。

悪いことをして、それが分かることの恐ろしさである。
正義感が強いというよりも、正義感が自分を守るための手段に過ぎない。

悪いことをしてはならないというような自分の判断で生きていかれる人は、
そう簡単に挫折するものではない。

強くなろうと思ったら、自分の心の底を見つめることを避けてはいけない。
ばれるのを怖くて何もできない人がいる。

そういう人は正義感が強いのではなく、臆病だということにしか過ぎない。
自分は正義感が強いのではなく、たんに臆病に過ぎないという自分と
直面できる人は、やがて本当に強くなることができるであろう。

何か悪いことをして、それがばれて自分の世間体に傷がつくことを
恐れているだけのことを、自分は正義感が強いなどと錯覚していると
いつまでも強くなれない。

小心で臆病な人は正義感が強く、義務責任感が強く、正直であるように
見えるものである。

子供の頃感じた色々な恐怖。肉体的な恐怖、精神的な恐怖、それらが心の中で
一つになり、大人になっても人は根拠のない恐怖に苦しむことも多い。

そして恐怖にとらわれると物事を悪く悪く解釈する。
人を信頼することができなくなる。